信州 安曇野             SHINSHU AZUMINO /SHUEI




今年2005年10月 南安曇郡の豊科町、穂高町、堀金村、三郷村
東筑摩郡の明科町の5町村の合併で安曇野市が誕生した。
それ以前の南安曇郡は梓川村、奈川村、安曇村の三村を加えた七町村であったが
三村は2005年4月に松本市へ合併した。


安曇野・・・どこか歳時記の詩趣を思わせるゆかしい地名である。
南・北安曇郡一帯、とりわけ大町から松本にいたる細長い盆地を安曇平、あるいは安曇野と呼ぶ。
この名が全国に知られたのは、臼井吉見の長編小説『安曇野』からであろう。
しかし、それ以前にも、明治末頃から、武者小路実篤の書簡や若山牧水らの短歌会でも
安曇野という言葉が使用されていたという。
いずれにせよ、文人好みの、あるいは、文学的イメージがしてしまった珍しい例ではなかろうか。

確かに字面がいい、語感も悪くない。
歴史好きの人にとっては古代史の謎とロマンをかきたてる名前でもある。
しかし、それだけでもあるまい。
少なくとも、北アルプスの美しい景色とあいまって、この地方には明治の世から
東京の文人達をひきつけてやまぬ何かがあったに相違ない。

松沢求策、木下尚江、井口喜源治、相馬愛蔵夫妻、荻原碌山...
明治という日本近代化の夜明け、この地方の出身者が、
政治、経済、文化、芸術の各面において果たした役割は少なくない。

「富士の秀峰の美をば私も之を認めるけれ共、私の精神を動かし得るものは乗鞍槍ヶ嶽のゴソゴソした山である」
碌山は自ら彫刻を志した理由をこう述べている。
時代の栄達に流されず、不器用なまでに屹立しようとしたこの地の出身者達。

小説「安曇野」でも描かれた彼らの、自らを厳しく律した生き方は、当時の世相に鮮烈な印象を与えたに違いない。
彼らの精神の奥底を形成したものは、この北アルプス特有の哲学的風貌、
あるいは、安曇野という詩的イメージとは裏腹なこの山里の厳しい水土ではなかっただろうか。

現在、この地は年々多くの観光客を集めながら、長野県でも屈指の穀倉地帯を維持している。
しかし、それは決して恵まれた地形や風土によるものではなかった。
「最良の肥料は農夫の足跡である」ここに生きた無数の農民達が
自らの手と足で踏み固め、掘り起こし、この地の類まれなる水土をつくってきた。
そして、そのつくられた水土が有名無名を問わず多くの人物を育ててきたのである。

安曇野。とりわけ春がいい。銀雪が連なるアルプスの山々、白い土蔵の村。
水田に植えこんだレンゲの花や四辻の道祖神。
そして、身が切れるほど冷たい湧水・・・・・。
その穏やかな春の野にたたずみながら、想いを馳せてみよう。


今から2300〜1700年前の弥生時代、
渡来系弥生人の顔の特徴だと言われている蒙古襞のある人々が対馬海峡を越えて日本列島に渡ってきた。

彼らの多くは北九州から瀬戸内海沿岸、そして畿内に住み着いた。
それに対して、目頭から目尻までくっきりと二重になっている二重瞼は、縄文系の特徴です。

弥生人の渡来以前から日本列島に住んでいた縄文人には二重瞼が多く、蒙古襞は余り見られない。
縄文系とされるアイヌの人の96.8%が二重瞼なのに対して、朝鮮南部では二重瞼は42.1%しかいない。

沖縄の人も縄文系だと言われてきたが、今はちょっと違うんじゃないかといわれています。
縄文系と弥生系では異なった特徴があります。まず耳です。耳たぶがツルンとくっ付いてるのは弥生系。

分離型の耳たぶ=福耳は縄文系です。
それからエラが張ってるのは縄文系で、細顎で歯がでかいのは弥生系です。
縄文時代・弥生時代とか言うけれど、縄文人と弥生人は人種が違うのです。

弥生時代から大和朝廷の時代までに、ざっと100万人ぐらいの人々が朝鮮半島ないし中国から
海を渡って日本列島にやってきたと考えられるのです。

この渡来系弥生人と、元々の縄文人の混血の末裔が現代日本人となった。
全く純粋な弥生人もいなければ、全く純粋の縄文人もいない。
みんな混血しているから、今の日本人は縄文系の特徴と弥生系の特徴を両方持っているということです。
最近、発掘された縄文人の人骨からミトコンドリアDNAを抽出し、それを世界各地の人々と比較する研究が行われています。
その結果、20数体の縄文人のミトコンドリアDNAの内17体がシベリアの
バイカル湖周辺に住むブリヤート人と同じだということがわかった。
南方の人々と同じDNAは数体しかでていないのです。

かつては「日本人は南方から来た」というのが定説だったのですが、どうも日本人の祖先はシベリアからやって来たらしい。
日本人の祖先がシベリヤからやってきた証拠は、ミトコンドリアDNAだけではありません。

シベリヤで2万3000年前のマリタ遺跡という遺跡が見つかり、そこから人骨と共に細石刃を植刃した槍が出土した。
このシベリアで出土したのとそっくり同じ細石刃が、北海道からも出土しています。
現在は大陸とサハリン、北海道、そして本州は海峡によって隔てられています。

マンモスや私たちの祖先はどうやって海を渡ったのか。
氷河期には海面は今より100mも低かったのです。
大陸とサハリン・北海道は陸続きだった。深い津軽海峡も今よりずっと狭まっていて、厳冬期には氷結した。
朝鮮半島との間の対馬海峡など十数キロの幅しかなかった。
日本列島は事実上、大陸と地続きだったということです。



海人・安曇族の里
『信府統記』という古い書物には「信濃の国有明の里は景行天皇十二年まで湖であった」という意味の記述がある。
景行天皇といえば日本武尊の父。その昔、安曇野一帯は四方を山々で囲まれた大きな湖であり、
泉小太郎という男が生坂村の山清路というところを切り崩して今の犀川に流し、
安曇野の大地が誕生したという伝説も語り継がれている。
泉小太郎は、安曇族であったといわれている。

安曇族-----古代日本を代表する海人族・安曇氏。
神系氏族とされ、大和朝廷以前、弥生時代の頃から重要な地位にあったと伝えられている。
その本拠地は北九州の志賀島一帯、遠く中国まで交易をし、海部を支配して勢力を誇った有力な豪族である。
後に、白村江の戦いを指揮した安曇比羅夫など大和朝廷の水軍の指揮官を務め、
外交、あるいは内膳職としても高い地位にあった。

水軍であるだけに、あちこちに移住し、その勢力を拡大した。
筑前国糟屋郡安曇郷(福岡県)、伯耆国会見郡安曇郷(鳥取県)、美濃国厚見郡厚見郷(岐阜県)、
三河国渥美郡渥美郷(愛知県)・・・・・。

いずれも、海人・安曇族の住みついた地とされている。
漢字は、言葉があって後から当てられたものであるから、「アヅミ」は、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積
などと表記され、その足跡は瀬戸内海を経由して阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江におよび、
琵琶湖の西側には安曇川の地名を残している。

海人安曇族は、六世紀半ば頃こんな山岳地帯にも住みついた。
五二七年の筑前糟屋郡で起こった磐井の乱で敗れた筑紫君葛子(八女王葛子:やめのおおきみ)一族が
船で海路逃亡し大和朝廷の手の届かない安全な糸魚川から塩の道を通り、
北安曇郡松川村の鼠穴から安曇野市穂高の有明山入り口、魏石鬼岩窟の辺りを本拠地として
池田町の川合神社一体に住み着いた九州筑前安曇族と、
後から奈良朝廷の官職の内膳司であった安曇宿禰氏に食材を供給していた東山道経由で
穂高に住み着いた畿内安曇族の二系統説などがある。
安曇宿禰氏は同じ内膳司を務める高橋氏との抗争に敗れ佐渡へ流された。





穂高有明 魏石鬼岩窟

この地の守護神・穂高神社には安曇氏の祖神「穂高見命」とその父「綿津見命」が祀られており、
いまでも同神社の祭りの日には、何艘もの船がくりだし互いにぶつけ合う豪壮な行事を見ることができる。
「安曇」という郡名が現れるのは奈良時代(七〇〇年代)。

また、この地域一帯には、平安初頭の武将・坂上田村麻呂に滅ぼされたという八面大王の伝説も語り継がれている。
“はちめんだいおう”と読んでしまうが、もとは八女大王(筑紫君葛子)“やめのおおきみ”
が後に漢字表記されるときに八面大王となったのではないだろうか...
九州王朝説では八女天皇は卑弥呼の後裔であり、磐井の乱で生き残った葛子が
八女大王の称号を引き継ぎ、その子孫が信濃国安曇郡の一角で受け継いできた可能性もある。

この地帯の山麓には、官の領する牧場があったらしい。
西牧、仁科といった地方豪族が支配するのは平安末期。筑前安曇族は仁科氏と坂上田村麻呂により滅ぼされた。

それからおよそ五〇〇年間にわたってこの地を支配してきた名族・仁科氏の拠点は、現在の大町市である。
ちなみに、仁科氏は、当時の多くの武将がそうであったように平安京文化に強い憧れを持っていた。

今の大町市に京風の町割を築き、近くには貴船神社、北野天満宮といった京都の社を配した。
安曇の一帯には、高瀬川、木舟、定光寺、小倉、室町橋、鳥羽、吉野、大原といった京都を連想させる地名が多い。
江戸時代の幕藩体制では、この地は松本藩の支配下に入る。

しかし、この藩の城主交代はひどく目まぐるしい。
石川二代、小笠原二代、戸田二代、松平一代、堀田一代、水野六代、戸田九代。いずれの代も石高は七万石前後。
決して豊な領地ではなかった。

水野氏の代で起きた有名な農民一揆。
多田加助のもとに集まった一揆の農民は実に一万人を超えたと記録にある。

今、信州で一、二位を競うこの穀倉地。アルプス、筑摩山地、夏なお根雪を残す高嶺に四方を囲まれ、
安曇族が海を捨ててまで定住したこの地には、にわかには信じがたい事に、水が少なかったのである。




消える川 複合扇状地の怪
北アルプスの秀峰・常念岳にその源を発する烏川は、深い谷間の水を幾筋か集めて安曇野に流れ出るが、
平野部に出たとたん、その流れは忽然と姿をチす。

また、その南、黒沢山から流れ出る黒沢川も、途中、落差三〇メートルの滝で水飛沫をあげながら
平野にたどり着くや川はやせ細り、田畑のまん中でついに姿を消してしまう。
扇状地でたまに見られる、いわゆる尻無川である。

上流ではあれほど水量豊な梓川も、安曇野へ出るとともに流れはまばらになり、
小石だらけの広い川原を水が流れるのは大雨の後くらいだったという。
そして、奇妙にも、地元では“花見”と呼ばれるあちこちの緑陰から清冽な湧水となって再び姿をあらわし、
穏やかな流れの野川を形成するのである。

万水川-----その名のとおり、わずか七.四キロメートルのこの短い川は平野部から突然姿をあらわし、
すり鉢状になっている安曇野の底に位置して、地中から地表から北から南から万の水を集めて淘々と流れている。
まさに千山万水。

この奇怪な現象は、この盆地が礫質(小石)の多い沖積層からできているせいである。
加えて、この地は、鹿島川、高瀬川、乳川、芦間川、中房川、川窪川、烏川、黒沢川、梓川といった
幾つもの川が形成した“大複合扇状地”となっている。

それぞれ深い渓流となって北アルプスの岩石や土砂を運んできた急流は、
平地に出ると急にその流速を落とし、礫の多い土砂が扇状に堆積する。
水は地下を潜って不透水層を流れ、再び、扇状地の終わる先端部で姿を見せることになる。
(その複数の扇形の先端部が重なり合ったところに万水川が位置するわけである)。

それぞれの川の上流部(扇状地の要)と、それらの川が一ヵ所に集結する
下流部(すり鉢の底)の沼地は水が豊富であったが、
広大な面積を占める扇状地の中腹には水がなかったのである。

縄文時代の遺跡は五〇ほど散在(上流部に集中)するが、弥生のそれは半減する。
また、大きな古墳も造られていない。理由は明らかであろう。
北アルプスという巨大な水の宝庫を持ちながら、水田を造ろうにも地表に水がない。

おまけに、北アルプスの水は稲が育つには、やや冷たすぎた。
畑作も、地下水位が低く(二〇メートル以上)天水に頼るしかない。
しかも、この盆地は年間雨量一〇五〇ミリ前後(日本の平均雨量は約一八〇〇ミリ)。
夏の雨量は極端に少ない。

松本平、伊那平、佐久平、善光寺平。
海を持たぬこの山国のわずかな平地は、俗に信州四平と呼ばれている。
安曇野はその松本平の大半を占めるなだらかな地形でありながら、
水のなさゆえに、過去長い間、不毛の大地だったのである。


有明山

当然のことながら、狭義の歴史なるものは水のある場所から発生してくる。
泉小太郎の伝説がそうであるように、安曇野の歴史は、“水と土”をめぐる歴史といっても過言ではない。

集落(水田)が成立するためには、川から大量の水を引いてこなければならない。
通常、川はその地域の最も低い場所を流れ、水を引くには、はるか上流の、
少なくともその村より標高の高い地点からということになる。

日照り続きでも水が枯れないよう大きな水路を造れば、豪雨には、洪水を呼び寄せることにもなる。
自然の川でさえ水が潜ってしまうこの地で、枯れも溢れもしない水路を築くことがいかに大変であったか。

ともあれ、ある川から一本の水路が築かれ、一つの小さな村が成立する。
川にはまだ水があるので、別の村が水路を引く。
さらに新しい村々が次々と水路を築いていく。

こうして一本の川に、その水が利用できる分だけ幾つかの集落が張りつく。
しかし川の水量は刻々と変化する。
特に夏の渇水時、上流で水を取ってしまえば、下流の村は生きてはいけない。
右岸と左岸の対立も流血の惨事をともなった。

こうした調整、抗争をいくども繰り返しながら、ひとつの川を命の源とする水利共同体が
長い時代をかけてできあがってきたのである。
つまり、集落とは、現代の団地やニュータウンのようにではなく、
乏しい川の流れを、縒糸をほぐすようにして分け合い、時に奪い合い、
あたかも古い樹木が自然との闘いを年輪に刻みながら育つがごとく、
気の遠くなるような時間と労力、闘いを通してできあがってきたのである。



安曇野とフォッサマグナ
フォッサマグナは、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目とされる地帯。
安曇野はこの大地溝帯の中に位置する

西南日本に当たる飛騨山脈は大部分が5億5,000万年前〜6,500万年前の地層であるのに対し
フォッサマグナにあたる妙高連峰付近は大部分が2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物である。
この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで
大規模な地殻変動が関係していることを示している。

原始の日本列島は、現在よりも南北に直線的に存在して、アジアに近い位置にあったと考えられている。
2,000万年前に、プレートの沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。
背弧海盆とは、沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、
海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが
これによって日本海が現在のように広がり、日本列島もアジアから離れていった。

日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフと日本海溝の2つだったため、
日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。
折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、
新生代にあたる数百万年間、砂や泥などが堆積していった。
そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って
日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。
この時、間にあった海が徐々に隆起し、新生代の堆積物は
現在陸地で見られる地層になったと考えられている。


地球の内部構造
薄い
地殻の下に上部マントル下部マントルがあり、中心部の白っぽい部分は
プレートは地殻と上部マントルの最上部が一体となった岩板
地球は半径約6,500kmであるが、その内部構造を物質的に分類すると外から順に下記のようになる。

深さ約10km30kmまで : 地殻

深さ約670kmまで : 上部マントル

深さ約2,900kmまで : 下部マントル

深さ約5,100kmまで : 外核(外部コア)

中心 : 内核(内部コア)

地殻とマントルは岩石で構成されており、核は金属質である。
マントルを構成する岩石は地震波に対しては固体として振舞うが、長い時間単位で見れば流動性を有する。
その流動性は深さによって著しく変化し、上部マントルの最上部(深さ約100kmまで)は固くてほとんど流れず
約100km〜400kmまでの間は比較的流動性がある。
地殻と上部マントル上端の固い部分を合わせてリソスフェア(岩石圏)と呼び
その下の流動性のある部分をアセノスフェア(岩流圏)と呼んで分類する。
この厚さ約100kmの固いリソスフェアが地表を覆っているわけであるが、リソスフェアは
いくつかの「プレート」という巨大な板に分かれている。


プレートの境界
プレートはその下にあるアセノスフェアの動きに乗っておのおの固有な運動を行っている。
アセノスフェアを含むマントルは定常的に対流しており、一定の場所で上昇・移動・沈降している。
プレートはその動きに乗って移動しているが、プレート境界部では造山運動、
火山、断層、地震等の種々の地殻変動が発生している。
大局的なプレートの運動は、すべて簡単な球面上の幾何学によって表される。
また、局地的なプレート運動は平面上の幾何学でも十分に説明しうる。
3つのプレートが集合する点は、それらを形成するプレート境界の種類(発散型・収束型・トランスフォーム型)
によって16種類に分類されるが、いずれも初等幾何学でその安定性や
移動速度・方向を完全に記述することができる。
一般にプレートの運動は、隣接する2プレート間での相対運動でしか表されない。
しかし、隣接するプレートの相対運動を次々と求めることで、地球上の任意の2プレート間の相対運動を記述することができる。
近年では、準星の観測を応用したVLBIと呼ばれる方法やGPSによって、プレートの絶対運動も理解され始めている。

 
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