PYRAMID /SHUEI
PYRAMID



PYRAMID ☆ 古代文明 と 星 ★


永遠のMYSTERY 古代エジプトの遺産 PYRAMID 

ピラミッドはオリオン座を地上に描いたものだと言う説があります。
ナイル川を天の川に見たてて、夜空の星をピラミッドで作ろうと考えたのなら、なぜ、あれほどの緻密で正確、大規模な建造物が必要だったのでしょうか。
内部からもシリウスなどの星が観測できるように設計されているピラミッド。星の動きを正確に知っていた古代エジプト人。
太陽の昇る位置は長い年月をかけ12の星座をゆっくりと移動してゆき、同じ星座を背景に太陽が昇るには約2万6000年の時間が必要です。
そんな事を考えると、占星術にも興味が沸いてはきませんか?
エジプトのピラミッドをはじめインカやマヤの高度な天文学知識、ナスカの地上絵も天の川の星ではなく星と星の空間を描いたものだと言う説もあります。

古代文明...そのほとんどが、星・星信仰とか星座・天文学に行きつく気がします。
星から何がわかるのか、何を知ろうとしたのか...いつかそんな事を考えながら世界中の遺跡に立って星を眺めて見たいなと...

 

Δ ピラミッド
 内部構造 守護神、スフィンクスに守られたギザの三大ピラミッド。

なかでも最も大きいクフ王のピラミッドは、一辺の長さ230m。高さは147m。
底面積5万3000uの上に230万個もの石灰岩のブロックで積み上げられ、その重さは600万トン。
その4辺は正確に東西南北を指している。現代のハイテク技術をもってしても建設は困難かと思います。
建設当時は表面が化粧石でおおわれていて、現在の姿とはまた違った美しさを持っていたのでしょうか。

カフラー王のものとされるピラミッドの頂上には、現在でも化粧石が残っており、当時の面影をしのぶことができます。
化粧石は中世、モスクなどの建設のためにはがされたとされています。
初めてピラミッドが建造されたのは紀元前2650年頃、エジプト第3王朝のジェセル王だといわれています。
このピラミッドは石組みを使った6段の階段状のもので、階段ピラミッドを中心にして、東西277m南北545mの周壁の中には葬祭殿、神殿などが配置されています。

このようにピラミッドは、それ一つが単独で建てられたのではなく、これらのピラミッド・コンプレックスと呼ばれる建物群のひとつなのです。
ピラミッドのそばには葬祭殿がおかれ、ピラミッドの東側からのびる参道が河岸神殿へとつながっています。
河岸神殿というのは、当時この近くを流れていたナイル川を、船で運ばれてきた王の遺体がついた場所で、ここでミイラ化が行われたと考えられています。
ほとんどのピラミッドの内部は地下につづく通路と玄室といった造りになっています。
しかしクフ王のその内部構造は、他のピラミッドにみられないような複雑なものとなっています。

現在の入口は、9世紀の中頃、アル=マムーンという当時の支配者が開けた盗掘坑で、ピラミッドの北側の斜面にあり
本当の入口は地上約17m、南北の中心線から東へ7.3mずれた位置にあります。
この入口は切妻型に石を組んでつくられており、ここから26度の角度で正確に地下にある部屋まで高さ1m幅1mの狭い下降通路がのびている。
さらに進むと3つの花崗岩でふさがれた上昇通路と下降通路があります。
上昇通路は下降通路の途中から始まっており、その交わる部分は、当初から花崗岩でフタをされ隠されていました。
幅1m高さ1m、26度の角度で上に約40m続く上昇通路は、腰をかがめないと上れない狭さです。
上昇通路を登り切ると広い大回廊にでます。

長さ47mにわたって続く大回廊は幅2m高さ8.5mで、壁は石を7段重ねた構造で天井にいくほど細くなっており、天井の幅は1m、床には高さ60cm幅1mの溝があります。
この通路の両側には1m間隔に坑が彫られています。
この大回廊と上昇通路が交わる地点からは水平通路がのびており、部屋へと続いています。
この部屋は当時の女性の墓の天井がこのような形をしていた事から「女王の間」と呼ばれています。
東西に5.74m南北に5.68m。高さは6.22mで天井は切妻型になっており、東面には大回廊の断面のような壁龕が彫られています。
この部屋には北面と南面に幅20cmほどの通気孔と呼ばれる正方形の穴があいていますが、外には通じていません。

水平通路を戻り大回廊を上り詰めて控えの間を通ると、「王の間」と呼ばれる部屋にでます。
この部屋は、南北に5.25m東西に10.50mの花崗岩でおおわれており、西側にはフタのない花崗岩の石棺が置かれています。
この石棺は幅0.98m長さ2.27m高さ1.05m。
内部の長さは1.98mで、内部容積1166.4リットル、外部寸法の容積が2332.8リットル、不思議な事にちょうど2倍となっています。
石棺の縁は、なめらかに仕上げられている部分と削りかけの部分とがあり、とても王の遺体を納めておくためのものとは考えられません。

アル=マムーンが初めてこの部屋に入った時もこの状態で、中には財宝はありませんでした。
この部屋の北面と南面にも女王の間と同じような換気孔があいており、南面の方には、室内の湿度をへらすための換気扇がもうけられていて、この孔は外に通じています。
このような複雑な構造を持つ建造物が一人の王の墓として建てたという説には説明のつかないいくつかの点があります。
副葬品めあての盗掘者は跡を絶ちません。
それは、クフ王の時代も同じでした。それなのに、わざわざ人目を引くような巨大な墓を建造するでしょうか?

現在ピラミッドは約60基発見されていますが、その中から王の遺体が発見された例は一つもありません。
1951年に発見されたセケムケト王のピラミッドは、盗掘された跡がなかったにもかかわらず石棺の中は空でした。
それどころか、クフ王の父にあたるスネフェル王は、ダハシュールに少なくとも二つのピラミッドを作っています。
ピラミッドが王の墓だとしたならば何とも奇妙なことです。
それではこれらのピラミッドは、果たして何の目的で建てられたのでしょうか。


Δ オリオンミステリー
1994年、ギザの三大ピラミッドは王の墓ではなく、夜空に輝くオリオン座の中心の三つの星アルニタクとアルニラムとミンタカを表している。
という、それまでエジプト考古学者が考えもしなかった画期的な仮説を書いた「オリオン ミステリー」という一冊の本が出版されました。

ギザの三つのピラミッドの航空写真を見てみるとクフ王のピラミッドとカフラー王のピラミッドはその対角線をのばした方向に並んでいますが、一番小さなピラミッド、メンカウラー王のピラミッドと呼ばれているものは、二つのピラミッドを結ぶ対角線上から少しずれています。
きわめて精巧に作られたピラミッドどうしに何故このようなずれが生じているのか?
何故メンカウラー王のピラミッドは先の二人の王のものに比べて小さく作られたのか?財政難説?
それを証明するものは何一つありません。

ボーヴァル氏はこれらのピラミッドはある計画に沿って作られたもので
メンカウラー王のピラミッドはこのように作られなければならなかった。
その計画とは夜空を地上に写しとることであると。
そこで、オリオン座の3つ星の写真とピラミッドの写真を重ね合わせてみると まさしく、ピッタリと重なります。
さらに少し暗い星ミンタカがメンカウラー王のピラミッドに重なり、その大きさやズレがうまく説明できます。

エジプト考古学界で長年謎とされてきた部分が、このように解明されたのです。
王の間と女王の間に二本づつある細長い通気孔は、南の空のオリオンとシリウスがそれぞれ南中した桙フ高度を示しているという事実も彼の説の裏付けとなっています。
通気孔のそれぞれの角度、王の間の北面の通気孔は建設当時の北極星であった龍座のアルファに、同じく南面の傾斜角45度の通気孔と女王の間の南面の傾斜角39度30分の通気孔は、当時のオリオン座のアルニタクとシリウスの南中時の高度に一致しています。

太陽信仰以前のエジプトのもっとも古い宗教は、オシリス信仰でした。
オシリスは復活と生産の神です。その妹であり妻であるイシスは子を守る女神として、その子ホルスは天空の神として崇拝を受けていました。
特に古代エジプトにおいて王は、ホルスそのものの分身として考えられていたのです。
古代エジプト人達は、ナイル川が洪水になる夏の明け方に、東の空より上ってくるシリウスをイシスの分身、そしてオリオン座をオシリスの分身と考えました。
王の間の通気孔がオシリスを表すオリオン座の3つ星を、女王の間の通気孔がイシスを表すシリウスを指しているのにはこのような意味あいがあるのです。

 


Δ ピラミッド・テキスト
オシリス信仰をあらわしているものが、サッカラにある第5王朝の王ウナスのピラミッドの中にあります。
フランス人の考古学者マスペロは1881年、ウナスのピラミッドの玄室で、壁一面にヒエログリフと呼ばれる文字が刻まれているのを発見した。
このピラミッドのものはそれらのヒエログリフの中でも最古のもので、世界最古の文書でもある「ピラミッド・テキスト」と呼ばれています。
「見よ、王がオリオンとなってやってくる。
見よ、オシリスがオリオンとなってやってくる、汝は決まった時間にオリオンとともに東の空より上り、決まった時間にオリオンとともに西の空へと沈むだろう」
このテキストの中には何度となく、王が死んでオシリスになるという文章がでてきます。
ホルス神と同一視されていた古代エジプトの王は死んだ後、天に昇り、その父であるオシリス神となると考えられていました。
そして、新しい王がホルスとして政権の座につくのです。

天井をおおう星々の画。
これらは明らかに太陽信仰以前、古代エジプトにおいて星を信仰する宗教が存在したことを示しています。
そしてエジプト考古学博物館に展示されているアメンエムハト3世のピラミッドのキャップ・ストーンには三つの星とオリオン座をしめすケフの姿が刻まれています。
キャップストーンとはピラミッドの頂点に置かれていた石のことです。
ピラミッドがオリオンやシリウスといった星信仰の影響によって建造されたことを示す証拠の一つだと考えられます。

ボーヴァル氏は、クフ王のピラミッドのそれぞれの通気孔の角度を計測することによって、建設された年代が特定できると書いています。
何故、その角度によってそのようなことが特定できるのでしょうか?
地球は太陽の周りを24時間で自転しながら1年かけて回っています。
その自転の軸は約23.5度傾いており、そのために季節が生まれます。
そして、地球のこの自転の軸は太陽と月の引力の影響で、少しふらついています。

コマを考えてみましょう。
勢いよくコマが回転している時に、少し横方向から力を加えてやると、コマは回転方向とは逆にゆっくりと首振り運動を始めます。
このコマと同様に、地球も約2万6000年を周期としてゆっくりと首振り運動をしており、その運動は「歳差運動」と呼ばれています。
この「歳差運動」の結果、天球に見える星星の高度は、長い年月をかけてゆっくりと変化してゆきます。
例えば、現在の北極星は小熊座のアルファですが、紀元前3000年の頃、天の北極ちかくにいた星は龍座のアルファでした。

これは、星が移動したのではなく、地球がゆっくりとした首振り運動、つまり「歳差運動」をした結果なのです。
地球が首振り運動するわけですから、空のすべての星の南中時の高度は時代とともに変化してゆきます。
この現象を利用して、ピラミッドの通気孔の角度から逆算してピラミッドの建設年代を知ろうというのです。
その結果、王の間の南の通気孔がオリオン座のアルニタク星を指していたとすれば、ピラミッドの建設年代は、紀元前2475年ということが判り、 同様にして、王の間の北の通気孔と女王の間の南の通気孔の角度から計算された建設年代はそれぞれ、紀元前2425年と2400年で、ほぼクフ王のピラミッドは紀元前2450年頃に建設されたと推測できます。

さらに第4王朝のピラミッドのうち、ザーウィヤト・アル・アルヤーンとアブ・ロシュにある今は廃虚となっているピラミッドは、オリオン座の脚と肩にあたる星。
そして、クフ王の父であるスネフェル王がダハシュールにたてた2基のピラミッドはヒヤデス星団のふたつの星、アルデバランと311番星を表していることがわかりました。
第4王朝に建てられたこれらのピラミッドを空からながめた時、当時のナイル川は天の川となりAみごとに夜空の様子を地上に反映させたものであることがわかります。
つまり、この時代に建てられたピラミッドは、神々のいる天空を地上に写し取るという計画 に基づいて建設されたものなのです。
ボーヴァル氏は第4王朝時代に作られたピラミッドは王の墓ではなく、太陽信仰以前の星を信仰とする宗派の王の復活を祈る儀式として計画されたものである、と主張しています。

「オリオン ミステリー」の中で、ボーヴァル氏はある奇妙な事実を指摘しています。
これらのピラミッド群の配置は、古代エジプト人がギザの台地に立って南の空を眺めた時に見える星の配置と微妙なズレがあるのです。
本来ならばオリオン座をはじめとする星々はもう少し傾いていなければならないのです。
古代エジプト人達が、このズレに気づかなかったとは考えられません。
これほどまでに精密に建設されたピラミッドの配置が、実際の夜空の星とズレているのにはなにか理由があるはずです。
その謎を解く鍵は、地球の「歳差運動」にありました。
歳差運動によって地球の自転軸がゆっくりと傾きを変えるのに従い、地上でみえる天空の星はその高度と同時にその傾きをも変えてゆくのです。
それは地球の自転軸が「歳差運動」によって円を描いて回転するからです。

コンピューターを使ってピラミッドの示す配置が実際のギザの台地で観測された時代を計算し、はじき出されたその時代は紀元前1万500年。
最後の氷河期が終わり、人類はまだ幼稚な石器しかもっていなかったと考えられている時代です。
今から4500年も前の人々が星の動きを計算し、紀元前1万500年頃の天空の様子を地上に写し取ったとは、とても信じがたい事柄です。
しかし、エジプトの遺跡やパピルスからは、古代エジプト人達が、太古の昔からの歴史をしるしている事実があります。
現在の古代エジプトの王朝の区分は紀元前3世紀から4世紀にかけて、マネトーという神官がしるした「年代記」という書物によるものです。
この書物は現存していませんが、他の人々によってかかれた解説書によって、その内容を知ることができます。
後に発掘された第19王朝の王アドビスのセティ1世の葬祭殿に描かれた王名表や第17王朝時代のトリノ・パピルスからもマネトーの記述の正確さは裏付けされています。
マネトーの年代記によれば第1王朝の初代の王、メネス王以前の時代が三つに区切られていました。
初めに半神半人による支配の時代、つづいてホルスの王達が統治した時代があり、これらは合わせて1万5150年間、そして先王朝の時代が1万3777年間続き、メネス王以前に2万8927年が経過していたと記されています。

今から3000年くらい前のものと思われ現在トリノ博物館にあるトリノ・パピルスにはメネス王以前の王朝は3万6620年続いたと書かれている。
紀元前1世紀にエジプトを訪れたギリシャ人ディオドロスは、エジプトの神官から聞いた話として、次のように伝えています。
「最初の神々と英雄達は1万8000年近くエジプトを支配した。
人間が王になってからは5000年近くになると彼らはいう」これらの数字は互いに矛盾しており、真実を語っているというには無理があるように思われます。
しかし、古代エジプト人達が1万年の単位で自分たちの歴史を考えていたことが、想像できます。



Δ スフィンクス
最近出版された「KEEPER OF GENESIS」(創世の守護神)という本の中で、ボーヴァル氏とハンコック氏はその考えを推し進め、ギザにあるスフィンクスについて興味深い考察をしています。
スフィンクスの顔は真東をむいていて、春分・秋分の日に昇る太陽はその顔を照らします。
このスフィンクスがライオンの体をしているのは、紀元前1万500年頃春分の日の太陽は獅子座を背にして昇ったからだといいます。
現在、春分の日には太陽は魚座から水瓶座を背にして昇ります。
このように太陽の昇る位置は12の星座のゆっくりと移動してゆきます。
これも地球の「歳差運動」がもたらしたものです。

同じ星座を背景に太陽が昇るには約2万6000年の時間が必要です。
紀元前1万970年から8810年頃、春分の日の太陽は獅子座を背に昇りました。
紀元前2000年頃には、太陽は雄羊座を背に昇りました。
このころ建てられたルクソールの神殿の参道に並んでいるスフィンクスは羊の顔をしています。
紀元前1万500年の春分の日、ギザの台地に真東から太陽が昇るその時、南の空をみればオリオン座が南中し、地上に配置されたピラミッド群が映し出した姿を描いています。
このようなことは、もはや偶然とは考えられません。
古代エジプト人達は紀元前1万500年のこの時、彼らが「テプ・ゼピ」と呼んだこの始まりの時を地上に表現したのだと彼らは主張しています。

スフィンクス。          

古代エジプト人達は、「ルーキー」或いは「シュセプ・アンク」と呼び、迪・_として崇めてきました。
スフィンクスの像はエジプト各地に残っていますが、その中でも最大のものがギザのスフィンクスです。
高さ20m、全長57mで台地を削るようにして作られたこの像は、第2のピラミッドをつくったカフラー王によるものだと考えられています。
その根拠は第2ピラミッドからスフィンクスへ続く参道の存在。
そしてなによりもスフィンクス横の河岸神殿からカフラー王の像が出土したことです。
高さ168cm幅57cm、閃緑岩という堅い石を彫って作られたこの石像は、現在エジプト考古学博物館に展示され、古代エジプト芸術の代表作といわれています。

最近になって、このスフィンクスの建造年代をめぐって地質学者と考古学者の間で論議が行われています。
1992年、学者のジョン・ウエスト氏とボストン大学のロバート・ショック博士が、スフィンクスの胴体には雨による浸食の後がみられる、と発表しました。
地質学者であるショック博士は、スフィンクスを囲む南側の壁に注目しました。
この斜面には、上からの雨による浸食の跡がはっきりと見てとれるといいます。
彼の主張は、南の壁のでこぼこが風による風化であれば、柔らかい地層の部分から削られていきます。
しかし、この斜面は、上の地層から削られており、ところどころに明らかに水が流れたような跡がみられます。
地質学的にみて、この壁が掘り出された後に雨による浸食があったことは疑いようがありません。

それでは、いつこのエジプトに雨が降ったのでしょうか?この地域は1万年前頃までは緑のサバンナでした。
全体的に気候は現在よりもかなり涼しく、曇りがちで雨が多かったと考えられています。
その後、地球の氷河期が終わり、乾燥が始まりました。
7000年前頃から数千年間は再び雨の多い期間でした。
そして、古代エジプト王朝が始まったと考えられている紀元前3000年頃には再び乾燥が始まり、現在に至っています。
この事実が物語ることは明らかです。
彼らは「スフィンクスが作られたのは紀元前2500年頃のカフラー王の時代ではなくもっと以前、おそらく1万年くらい前である」と主張した。

スフィンクスの胴体にはかずかずの修復の跡がみられます。
その中で古いものは、カフラー王の数代跡の王の時代のものです。
この修復では、スフィンクスの胴体を1mもの厚さのブロックでおおっています。
数百年の間にそんなに早く風化するでしょうか?

ウエスト氏とショック博士は、これらの修復が行われた時代には、すでにスフィンクスは数千年間にわたって浸食をうけていたといいます。
もし、数百年で1mも風化するのであれば4500年間で15mも風化するということになり現在スフィンクスは原型をとどめていないでしょう。
このような地質学的根拠とは別に、このスフィンクスは他のスフィンクスにみられないある特徴があります。
通常スフィンクスは守護神として2体1対で参道に置かれます。
しかしギザのスフィンクスは一体のみで、カフラー王のピラミッドから続く参道はまるでスフィンクスをさけるかのように真東ではなく南に傾いています。
何故このように参道をかたむけなければいけなかったのでしょう?
カフラー王がピラミッドを作った時、すでにスフィンクスが存在していたと考えればうまく説明がつきます。
つまり、1体のスフィンクスがすでにそこにあったため、カフラー王は参道を傾けなければならなかったというわけです。
カフラー王に似せてつくらてたという顔についても興味深い事実があります。
それは他のスフィンクスに比べて胴体に対して顔の比率が異様に小さいということです。
それから、顔の部分には胴体にみられるような雨による浸食の跡はみられません。
つまり、顔が彫られたのはスフィンクスがつくられてからもっと後の時代、おそらくはカフラー王の頃だというわけです。
カフラー王がスフィンクスをつくったのではなく、もとからあったスフィンクスをいわば借用したというわけです。
カフラー王が、スフィンクスをつくったのではなく利用したということは、河岸神殿の石からも証明できるとショック博士はいいます。

河岸神殿は、石灰石の壁を花崗岩でおおうように作られています。
よくみると石灰岩と花崗岩の継ぎ目はぴったりではなく、石灰岩に花崗岩をあわせるため、削った後がみられます。
花崗岩の壁が石灰岩の壁と同時代に作られたものだとしたらこのようにはならず、継ぎ目は、まっすぐになっているはずです。
つまり、石灰岩の壁が元の神殿の部分で、数千年後、古王朝時代になってそれを花崗岩でおおって修復したのです。
それならば、河岸神殿からカフラー王のみごとな像がでてきたことも説明できます。
カフラー王は、古くからある神殿を修復したのです。
その像はおそらくその時に安置されたのでしょう。
スフィンクスは今から1万年くらい前につくられたものなのでしょうか?
だとしたら、スフィンクスを作った人々はその時代にすでに春分の日に太陽が昇る背景の星々をライオンの形に見立てていたと考えることができますBそれよりも、このような時代にすでにスフィンクスを彫ったり、200トン以上もある石を切り出して、神殿を建設する技術を持っていたことになります。
彼らの主張が正しければ、考古学界を揺るがす大事件です。


Δ インベントリー石碑
スフィンクスがピラミッドより前につくられたという証拠が、エジプト博物館にあるある石碑に書かれています。
「インベントリー石碑」と呼ばれるこの石碑は、19世紀のフランス人考古学者オーギュエット・マリオットがクフ王のピラミッドのそばのイシス神殿の発掘中に発見したものです。
女神イシスを「ピラミッドの女王」と呼び、河岸神殿が「ロスタウの支配者・オシリスの家」だ、と書かれたこの石碑には、「クフ王が、スフィンクスの近くに神殿を建てた」との記述がみられます。
つまりカフラー王の前のクフ王の時代に、すでにスフィンクスは存在していたことになります。

エジプト考古学者達は、この石碑はクフ王の時代から2000年くらい跡の第21王朝の時代に書かれたもので、充分な証拠とはなり得えないと考えています。
しかし、同時にスフィンクスをカフラー王が建てたとする文書が一つもないということも事実です。
数千年にわたって、人々を魅了してきたギザのピラミッドとスフィンクス。
ギザの台地では、ボーヴァル氏やウエスト、ショック博士が投げかけた近年の論争に決着をつけるかもしれない発見が相次いでいます。
クフ王のピラミッド内部、王の間には、多くの観光客が訪れます。
その観光客が残してゆく汗の水分によって、部屋は非常に蒸し暑くなります。

1991年、この問題を解決するため、ドイツ人のルドルフ・ガンテンブリンク氏がコンサルタントとして招聘されました。
この問題を解決するための簡単な方法は、もともと存在している2本の通気孔を掃除することです。
そうすれば外の空気が入ってきて、内部の湿度が下がるはずです。
そこで彼は、【ウプワウト】と名ずけた小さなロボットを製作し、この孔を掃除することにしました。
ロボットを使って、孔につまったゴミを取り除き、換気扇をとりつけました。
結果はうまくゆき、ピラミッド内部には新鮮な空気が入ってくるようになり、内部の湿度も外部と同じくらいにまで下がりました。
王の間での作業が終了した後、彼はこのロボットを使って、従来行き止まりになっていると考えられていた女王の間の孔を、調べてみようと思いたちました。

1993年3月、ガンテンブリンク氏は新型のロボット【ウプワウト2】を、女王の間の南面の通気孔に登らせました。
このロボットには小型のビデオカメラが搭載されていて、その内部の様子をTVモニターで見ることができます。
ロボットはゆっくりと登ってゆき、やがて65mほど登ったとき、カメラはその前方にある小さな落とし格子のような扉を写しだしました。
その扉は、磨かれた石灰岩でできていて、金属製の留め具が二つついているのが見えました。
この扉の隅の隙間から向こうをのぞくと、向こう側の孔とその先に暗い闇が広がっていました。
彼は、ピラミッドの内部に秘密の部屋を発見したのです。

ピラミッドが建てられて以来、開けられた事のない部屋。この部屋には一体なにが隠されているのでしょうか。
それはピラミッド建設の謎を解いてくれる重要なものであることに間違いありません。
クフ王のピラミッドの内部に隠された部屋があることは、それまでにも指摘されていました。
1986年フランスの調査隊は、精密重力計を使って、女王の間に通じる水平通路の下に隠された部屋を発見しました。
彼らは、その部屋を実際に確かめようとして、通路にドリルで穴を開けました。
ところがそこから出てきたのは大量の砂でした。その空間は、空ではなく砂が詰まっていたのです。

1987年、吉村作治氏が率いる早稲田大学の調査隊が、今度は電磁波を利用した装置で、この水平通路と平行に走っている通路の存在を発見しています。
この通路は、水平通路から2m離れて、女王の間の出口から5mのところから、大回廊の出入口の手前7mまで続いています。
この時の調査で、控えの間の西側の壁の下に大きな空間と、王の間の石棺の南部分の床下と地下の間の西側の壁にいくつかの空間があることが判りました。
この時行われたスフィンクス周りの調査でも、興味深い発見がありました。
南北の両胴体部分に、深さ3m長さ2mのピットと呼ばれる縦穴が、そして、左肘付近の深さ1.5〜2mあたりのところに長さ7mもの金属の反応が検出されました。
両足の前の前庭部分の地下2mのところからも空間の存在が発見されました。
これは、昔からいわれてきたスフィンクスの地下へと続く通路であると考えられています。
この空間はウエスト氏のその後の調査でも確認され、1995年11月ペンシルバニア大学によってそのサンプルがとられ、周囲の石より軽い物質でできていることが判明しました。
そして、今年の5月、ロバート・ボーヴ@ルとジョン・ウエスト氏によって、このスフィンクスの部屋と女王の間の南の通気孔で発見された部屋の調査がはじめられるとの発表がなされました。
何千年、或いは1万年以上前に造られたこれらの遺跡がいよいよ口を開く時がきたのです。
女王の間の調査では、最新の【ウプワウト】が使用される予定です。
スフィンクスの地下で複数の部屋と像が発見されているという、未確認の情報もあります。

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